人類最速の男はおよそ時速45キロでトラックを走る。新幹線の営業最高速度は時速320キロ。そのマシンはわずか3.7秒で時速100キロに達し、その後1.5秒で時速200キロまで加速する。レース中の平均速度は時速230キロだが最高到達速度は時速372.5キロにまでおよぶ。風を切るツバメのようにサーキットを一瞬で駆け抜けるそのマシンの名を、フォーミュラという。
◇
剥き出しのコックピットに女は座り、グリッドにてレース開始を待っている。左指でクラッチパドルを握り、ゆっくりと息を吐く。赤いシグナルが点灯した。レース開始5秒前。
スタートモードにセット、右のクラッチパドルを引く――4
変速パドルを引き1速に――3
ブレーキペダルを踏み込む――2
続いて右足を適度に踏み込みアクセルを――1
――0
シグナルがブラックアウトした瞬間、左指をクラッチパドルから離す。マシンは大きく唸って走り出す。身体に重力がかかり、速度があがったことを察する。狭いコックピットの中で精神を研ぎ澄ませ、複雑な操作をこなす。視界は良好。無線から流れるエンジニアの声に苛立つこともない。加速とともに心拍数が上がっていく。それでも気持ちは凪いでいる。今日はいける気がする――
◇
その日、彼女の乗る赤いマシンはそれが戦闘機かと思わせるほどの速さだった。直線を赤い閃光のように突き抜け、カーブでは華麗に舞った。月の女神はサーキットに降り立ち、そこでまた女神となる。
表彰台の頂きに君臨した月は、輝かしい顔で笑っていた。