炭鉱跡のすぐ近く、閑静な住宅地から距離のある寂れた煉瓦街。リーゲンドルフの外れのその場所に彼の家はある。目印の真っ赤なポストを前に足を止め、一人深呼吸をする。訪れるのは今日で三回目。目当ての人物はいつもいない。
じんわりと汗がにじんだ手のひらを握り、古びた扉をノックする。はーい、と間延びした声が向こう側から響く。
「テオ・マクティアです」
ガチャリと鍵が開く音の数秒後、ゆっくりと扉が開いた。
「こんにちは」
やわらかな顔で僕を迎えた彼は尋ね人の息子さん。部屋の中にはいって見渡してみるが、ムシュー・キュポアーロは見当たらない。
「今日もアーロさんだけですか?」
「ふふ、すまないねぇ。外に出るのが好きなようで。私は出不精なのだけど。」
目当ての人物が不在だと知り落胆すると共に、ほんの少し安心した。なんせリーゲンドルフの安楽椅子探偵との異名を持つほどの切れ者なのだ。同業として、緊張するのも無理はない。残念ではあるけれど、これでよかったのかも。
「せっかくだし、今日もどうだい?お茶を飲んでいくくらいの時間はあるでしょう。」
そう言ってアーロさんは紅茶の缶を僕に振ってみせた。ムシューに会えずに、アーロさんとお茶をして帰るのが定番になりつつある。実のところ、この時間を楽しみにここまで足を運んだ節がある。不思議な雰囲気を放つ彼に興味がわいているのだ。初めてのときは彼が猫のような目でじっと見つめてくるのが気まずくて、注がれた紅茶を飲み干しても喉が渇いて仕方がなかったけれど。その視線に慣れれば紅茶と少しばかりの会話を楽しめる。手のひらにかいていた汗は、いつの間にか引いていた。
「はい、ぜひ。」
アーロさんの淹れる紅茶は美味しい。甘いものが好きらしく、お茶菓子にもこだわっているようだ。彼が紅茶を用意してくれているあいだ、机の上に散らばった資料を軽くまとめておく。所々に見覚えのある筆跡がはしっている。ムシューの文字だ。
「今日の紅茶はラプサン・スーチョンだよ。」
声をかけられて顔を上げる。ポットからカップに紅茶が流れる落ちると同時に独特な香りが立ち上った。何かを燻したかのようなスモーキーな香り。アーロさんはもう席についている。それに倣って僕も椅子を引く。
「いただきます。」
強い香りとは裏腹に、飲み口はすっきりしている。
「濃いめに淹れたから、ミルクをいれるといいよ。」
勧められるままにカップにミルクを注ぐ。香りがまろやかになって飲みやすい。クセになりそうの味だ。
「ぼくは蜂蜜にしよう。」
アーロさんは卓上の蜂蜜に手を伸ばす。そういえばムシューも甘いものが大好きだった。お茶菓子を贈ると心なしか踊るような文字で返事がくる。
「スコーンも温めてしまおう。美味しいジャムがあったはずだ。」
外出が苦手だから贈り物はとても嬉しいと、いつもそう書いていた。それにしてはいつもいないけど。
――ん?いや、そうか。そう、かもしれない。だとすると辻褄が合う。
アーロってもしかして、
「――貴方がムシュー・キュポアーロですか?」
湧いてでた疑問を彼の背中にぶつける。鼻歌をうたいながらスコーンを焼いていた男は振り返り、ゆっくりと、しかし確実に口角をあげた。つかの間の沈黙をスコーンのほのかに甘い香りがうめていく。時間をかけて頬を緩めたあと、彼は口を開いた。
「ようやく気づいたのかい?待ちくたびれたよ。」
アーロさん、いや、ムシュー・キュポアーロはいたずらが成功した子供のように笑ってみせた。