#リプきたセリフでss書く
ソイさん宅頼くん定年退職if
戻ることのない部屋を見つめ、そして扉を閉める。鍵がかかる音は部屋の泣き声のように思えた。いつもはすぐポケットにしまうそれを握りしめて歩きはじめる。目をつむっても進めるくらい何度も歩いた廊下を目に焼き付けながら。部屋の鍵と支給品を返したらそれでおしまい。事務室までの道のりが短いと感じる日がくるとは思わなかった。それでも別れを惜しむ時間があることは有難いことだ。さよならを言うことなく去ってしまう人のなんと多いことか。その全ての人たちのおかげで今日の自分があることを、もう知っている。
事務室に入ると担当職員の他に部下が待っていた。慕われている自覚がある。わかりやすく懐かれているわけではないが、瞳は雄弁だ。気恥しさを感じながらも誇らしさは確かにある。積み重ねてきた日々が間違いでなかったと思える。俺もこうだったのかもしれない。目の前の青年は若い頃の自分よりも幾分か器用で素直なように見えるが。不器用で口下手で愛想がなかった俺を弟子と呼んだ彼の気持ちを想像する。物好きであったことは言うまでもないだろうが、彼も俺に可愛げのようなものを感じてくれていたのだろうか。その問いを投げかけることも、答えを聞くことも、もう叶わない。もっとたくさんのことを話したり聞いたりしておけば良かったと思うのは、いつも時が過ぎてからだ。後悔と呼ぶには小さい心残りを何層にも重ねていくのが大人になるということなのかもしれない。だからこそ、人は次の世代にバトンを託す。
「よ、頼さん」
しばらく口をもごもごとしていた青年が発した声は弱々しく震えていた。自分も、こういうとき何と言えばいいのか分からなかった。しゃくり上げる喉を落ち着かせることもできず、ぽたぽたと落ちる涙で床を濡らした。いま目の前にしてようやく、あの人の気持ちが分かった。言葉を詰まらる彼の瞳からこぼれる雫を親指ですくい、こう伝えることにする。
「それで十分だよ」
いつかあの人がしてくれたように。