柔らかい日差しに包まれている。風がカサカサと葉を揺らす。その風にのって、コーヒーと焼きたてのクロワッサンの香りが運ばれてきた。食器が触れ合う音と楽しげな鼻歌が近づいてくる。
少し掠れた鼻歌は私のすぐ側までやってきて、そして止まる。静かに、それでも僅かに音を立てて置かれたお皿。鼻腔をくすぐるのはバターの香り。
「ヴィル、ありがとう」
「いいえ、温かいうちに食べましょう兄さん」
サクッと音を立てながら歯がパンを割っていく。香ばしさが鼻に抜け、それをバターが追いかける。何層にも重ねられた生地は柔らかく、そして最後には甘みが残る。
「兄さんは本当に美味しそうな顔をして食べますね」
ヴィルに言われて首をかしげる。そう、なのだろうか。私にとって、泣き顔は鼻をすする音で、笑顔とは弾んだ声色だ。美味しそうな顔は一体なんだろう。
「ヴィルは随分とご機嫌な顔をしているね」
ヴィルのご機嫌な顔は可愛らしい鼻歌。ちょっと変な調子で跳ねて、踊るようなメロディ。
「朝から兄さんと食事ができるのですから当然です」
フンッと胸を張っているような雰囲気がする。兄と呼び慕ってくれるこの子の居場所に、私はなれているのだろうか。そんなことを時々考える。強がりで、けれど繊細なヴィルの寄る辺はきっとここではないのだろう。見えない私から、本当に見えないところへ行ってしまう日がいつか訪れる。それはきっと突然だ。
「……兄さん?」
「ううん、なんでもないよ。早く食べてしまおう」
表情に出ていたのだろう、ヴィルは怪訝そうに声をかけてくる。誤魔化すようにして手に持っていたパンを頬張った。うっすらと、しかし確実に漂う懸念をコーヒーで流し込む。苦味が口いっぱいに広がっていく。
気を紛らわそうと話題を探す。そこで足元から立ちのぼる湿気に気づいた。スンッと小さく鼻から空気を吸う。やっぱりそうだ。水分を多分に含んだ空気が土にまでおよび、特有の香りを発している。
「雨の匂いがするね」
そう言うと先程の私を真似て、ヴィルもスンッと空気を吸った。
「そうですか?私には分かりません」
「きっともうすぐ降るよ。濡れないうちに早く食べてしまおう」
「兄さんが言うのなら降るのでしょうね。急いで食べます」
ヴィルはムシャムシャと食べ始めたようだ。私も残りの食事に手をつける。ヴィルと私の間をビュウッと強い風が吹き抜けていった。