逆光

  嘘をつかれたら分かる。視線の動き、瞳孔の開きかた、声のうわずり、呼吸の変化、僅かに滲む汗。視界にとらえた情報を細かく脳が精査し、判断をくだす。なにも難しいことはない。この拡張された脳にとっては、の話だが。今日はそこかしこに嘘が流れる。面白い嘘、かわいい嘘、優しい嘘。どれも小さな嘘だろう。なにが真実でなにが偽りなのかはさして重要ではない。冗談を言い合って笑い合う、そういう行事なのだろう。
 どこか緩やかな空気が流れる廊下を歩く。行き先は決まっていない。今日は非番だし。ただ何もせず自室にいるのは気が滅入るからこうやってふらふらと彷徨っているだけ。休みなんかいらないと何度も言っているのに。叩けばいくらでも埃が出る機関が笑える話だ。労基なんか怖くないだろうし、法が適用されるのかだって怪しい。ここにはいろんな事情を抱えた人たちが集まっていて、火種はいくらでもある。金払いがいいのも、律儀に休みをよこすのも、簡単な予防線に過ぎない。機関に所属するエコーや改造人間が世の中に牙を向いたとき、自分たちに落ち度がないことを世間にアピールするためのいくつかの仕込みのうちのひとつ。私にはどうでもいいこと。
 進んでいるうちにすれ違う職員が少なくなっている。無意識に上階へと向かっていた。僅かに震える指先にはもう気が付いていた。オイルの切れた機械のようにぎこちない動きの足が何度か私をつまづかせたが、それでも帰ることはできなかった。ただ静かに階段を上っていくしかできないでいた。
 屋上へ続く最後の階段に差し掛かったとき、その頂点に何かの影を捉えて息が止まった。音が遠くなった気がしたのは一瞬のことで、張り詰めたものを意識的に吐き出して身体に酸素を回した。よく見るとそれは人影で、階段の一番上に座りこみ舟を漕いでいるようだった。一段あがるたびに輪郭が浮かんでくる。深緑の癖のある長い髪、すらっとした脚は小さく折りたたまれ、首がゆらゆらと揺れている。私が近づくと気配を感じたのか、緩やかに顔をあげた。
「ん~、ライリー?こんなところでどうしたの」
「散歩、かな。ラピナくんはお昼寝かい?」
「そうだよ。ここ、あったかいんだ」
屋上の扉についた窓から差し込む陽の光が、あたりを優しく照らしている。彼がいろいろなところで眠っているのは職員から話に聞いていた。どこも陽のあたる場所。穏やかかな寝顔にファンがついているようだった。彼はそんなことは露知らず、縮こまった筋肉を伸ばし大きなあくびをした。ぐうっとお腹の音が響く。
「へへ、お腹すいちゃった。おれもう行くね」
「起こしてすまなかったね。またね。」
彼は立ち上がり階段を降りようとする。が、立ち止まり思い出したかのように口を開いた。
「あっ、あの噂って嘘だったんだね」
「噂?なんのことだい」
人の秘密を暴くのは好きではない。暴かれるのも。誰にだって隠しておきたいことの1つや2つくらいあるだろう。
「高いところが苦手ってやつ」
彼は光を背負っていた。顔には深い黒が落ち、表情は伺えない。自分が唾を飲んだ音がはっきりと聞こえた。思わず後ずさりする。かかとが浮き重心が崩れた。
「ふふ、おれライリーのこと好きだよ」
そう言いながら彼が沈んでいくのを後ろ向きに倒れながら見ていた。不意に背中に何かが当たった。支えられたと理解するよりも早く、耳に声が流された。
「こころのなかに影を飼ってる」
顔が引きつって言葉が出ない。首筋を流れる汗に彼は気づいているのだろうか。
「いつか影のなかに入れてあげる。ただの人になったらいいよ」
呆然とする私を残して彼は去っていく。階段を下りていく彼の足音だけが響いていた。