夏の地下室にて

 額から汗がじんわりとにじむのを感じてリモコンを探した。夏でもあまり気温があがらず過ごしやすいリーゲンドルフの、一年中一定の気温を保つはずのこの地下室。それが熱気に包まれているのだから外はどれだけ暑いのだろうか。想像するだけで目眩がする。資料の山を掻き分けて目当てのそれを探すが一向に見つからない。アイスティーの中の氷が溶けてカランとグラスをならした。そこで大事な前提を思い出す。そう、この部屋にはエアコンがない。ぼくとしたことが失念していた。茹だるような暑さで脳が正常に働かなくなっているようだ。お陰で無駄な労力を使ってしまった。にじむにとどまっていた汗は雫となり頬を流れて顎先から滑り落ち、資料を濡らした。仕方なく除湿機の威力をあげて何とかしのぐ。地下室は湿気がこもりやすいからと性能の良いものを選んでいて良かった。地上の部屋には冷房があるから移動すればいい話なのだが、資料はすべてこの部屋にしまいこんでありどのみち行ったり来たりすることになる。そろそろエアコンを設置すべきかと思うが部屋に業者を入れるのは気が進まない。
 溶けた氷で薄まった紅茶を一気に飲み干して汗を拭う。除湿機が効いてきたようで幾分かマシになったが集中の糸は途切れてしまった。少しだけ休憩をしようと甘いものを探していると、歪なリズムで部屋の扉がノックされた。二つある扉のうち事務所とは別の扉、つまり居住スペースからの来訪者。変わった調子だが、もう耳に馴染んだリズム。正確にいうと初めて聞いたときから妙に聞き心地の良いノック音ではあったのだけれど。
「どうぞお入りください」 
 この部屋に入ることができる人間は限られている。ぼくと、ようやく安楽椅子探偵の正体を知ったらしい助手、燦々とした笑顔を取り戻してきたあの子、それから彼女。深い海のような彼女の髪が、室内で首を振っている扇風機のゆるい風にあたり揺蕩っている。その様を眺めているだけで心なしか涼しくなる。
「あら、ぼーっとしちゃって大丈夫なの?こんな暑い部屋にいるからよ」
「ティーナ、帰ってたんだね」
「少し前にね。アナタが蒸しあがってると思ってシャーベット買ってきたの。休憩にしましょ」
外に出ていたはずの彼女の方がしゃんとしているのだから不思議だ。日頃の引きこもりが暑さ耐性にも影響しているのだろうか。そうだとしても部屋から出る気にはなれないけれど。
 そんなことを考えている間にも全身から汗が噴き出そうとしている。地下室の暑さに耐えかねたのか、ティーナはぼくに声をかけてすぐ一階にあがっていった。テーブルいっぱいに広げられた資料たちに本や分厚いファイルで重しをして扇風機の風量を上げる。顔にあたる風は生温く心地よいとは言い難いが、きっとないよりはマシだろう。
「早くしないと溶けちゃうわよ~」
上階からぼくを呼ぶ声がする。扉を開け階段へ踏み出すとひんやりとした空気に包まれた。なるほど、ティーナが長居しないわけだ。地下室での仕事も夏は諦めるべきかもしれない。まだまだ続くであろう酷暑に先を思いやられながら、愛しの彼女のもとへ向かうのだった。